雨の日に思うこと
雨の日は物思いに耽るのにちょうどいい日だ。
全く外の世界が気にならないし、家の中にこもり切りでも孤独を感じることがない。
他の住民たちもみな屋内にこもって陰気な顔をしながら退屈しのぎをしているのだろうと思うと、自分がこの世界に一人だと思わなくなる。
みんな同じ気持ちなのだと、よくわからない連帯感のようなものが芽生えて安心する。自信が湧き出てくる。
ここまでくると、逆に晴れの日のほうが憂鬱な気分になってしまう。
家で退屈しのぎをしている間、自分はなんて生産性のない人間なのだろうかと悔しくなるし、外に出てみると天気の良さが自分の卑小さを照らし出してくるような気になる。
歩いている人間がみな幸福で満たされているような錯覚に陥るし(事実そうかもしれない)、なんて陰気臭いやつが歩いているのだろうかと後ろ指差されるのではないかと不安になってくる。
ただ晴れている、それが不安の種になりうるほど、自分は小さな人間なのかとうんざりした気持ちが膨らみだす。
こんな風に生きにくさを感じるくらいなら、また筋肉トレーニングを再開してみたら明るい自分が取り戻せるだろうか。
だから雨の日は、僕にとっては良い日なのだ。
ただ家にいるだけでも罪悪感を感じないし、外に出てみるとみんな一様に陰鬱な雰囲気をまとっているから、自分が異質なものとして浮き出さなくなる。風景と人々に溶け込むことが出来る。
しかし、この世界では圧倒的に晴れの日のほうが多い。
雨が多い地域でも割合では晴れの日に対して雨の日は大敗しているだろう。
それならば、晴れの日に適応できる人間のほうが優れているし圧倒的に生きやすいと言える。
晴れの日を好きだと言える人々のほうが健全な気がするし、明るくて好感の持てる人が多い気もする。
雨の日が好きだと公言する人間なんてそうそういないし、いたとしても何だか逆張りしているようでみっともなく感じてしまう。
雨の日好きは黙って晴れの日を好む人たちの影に潜み、天気が悪くなってきたら静かに高揚しているのがお似合いではないだろうか。
個性の一つだと認めてくれる世界があるとしても、僕は同じように言うだろう。
晴れの日を愛している人たちは、雨の日にしか生き生きできない僕たちをすら温めてくれるのだから、なんだかその邪魔をするような真似をしたくないのだ。