雨の日に思うこと
出会い系アプリと自分の価値
一人でいることは心地良い。
元々一人が好きな性格ではあった。その面がコロナ禍で強化されたようだ。
一人でいるのは、自分のしたいことを好きなだけできる、誰かに気を遣うこともない、他人にバレたら恥ずかしいこともできる、とメリットしかない。
むしろ、自分の価値を高めることに集中できるのだから、常に群れていないと気が済まない連中とは人としての格が違ってくるはずだ。
そんな風に強がっていても寂しさを感じる瞬間が必ず来る。
まさに、その瞬間を先日迎えたわけだ。それからは、まあ大変だ。
今までは本・漫画・映画・アニメ・食事・睡眠あたりで、寂しさを紛らわせてきたから、寂しさそのものを解消する経験はほぼゼロだ。
だから、何をすればいいか悩んだ。
SNSが手っ取り早い気がしたが、発信するテーマも相手も持ち合わせていない。
友人に甘えてみることも考えたが、目的なく連絡を取り合ってくれる男友達なんていない。女友達なんてもっといない。
だったら、寂しさを昇華させて創作活動にぶつけるのはどうだろう。
そんなわけで小説を書いてみた。しかし、寂しさの解消には至らなかった。*1
そもそも昇華できるほどの情熱を創作活動に注ぐのは厳しかった。
だって、人とのつながりという、即効性のあるものを本心が求めているんだから。
そんなわけで僕は、大人気出会い系アプリwithにて出会いを探すことにした。
生真面目にチュートリアルや、「モテ度」をアップさせるための作業をこなし、他の出会い系戦士たちと同じ土俵に立った頃には、少し飽きていた。
しかし、ここで辞めてしまっては今までの苦労が水の泡であると自らを励まし、気になった相手に「いいね」をしまくった。
「ややぽっちゃり」「身長160㎝以上」にターゲットを絞っていいねをしていったが、なかなかマッチングしない。
だから、こだわりは捨てた。しかし変わらない。
写真が悪いのかと、自分の持っている写真の中で写りがいいものに変更していく。
一番感触のいい写真をメインに据えたが、まだまだだ。
プロフィール文は始め絵文字満載の騒がしい文面にしていた。
今では絵文字は2つ程度に抑え、落ち着いたものにしている。
好みカードの登録数が100を超えた。
心理テストは更新されれば即答えている。
だんだんと、写真やプロフィール文を工夫してどれだけいいねをもらえるかに執着し始め、マッチングは多いのにトークを続けられなくなってしまった。
本末転倒である。
しかし、ここで気づいた。
恋人や異性の友人が欲しいのではなく、いいねの数で自らの価値を確認しようとしている自分の浅ましさに。
寂しさの裏に、自分は誰からか必要とされる価値のない人間なのかという不安が付きまとっていたようだ。
いいねの数ではその不安は解消されないし 相手に失礼だから真面目にやろう、と誓いを立てた早春の夜であった。
年明けてから今まで
なんとなく最近、小説を書いている。
なんでと?(笑)と聞かれた時用に、答えはいくつか用意しているが、一番大きな理由は自分の感じているものを外に吐き出すための形式として一番身近で使いやすいから。
日頃感じているものを表に出す方法はいろいろある。曲を作ったり、ブログを書いたり、絵を書いたり、友達に話したり、踊ってみたりなどなど。
だけど、曲作るのはハードルが高いし、ブログが愚痴ばっかりになっちゃうのはなんか嫌だし、絵は下手だし、友達はいないし、踊りはよくわからない。
そんな消去法の末辿り着いたのが、小説を書くことだった、ただそれだけの理由である。
一つ書き終えたら満足するのか、楽しくなってどんどん書くのかはまだ分からないけど、今の感情に区切りがつくまでは書き続けると思う。
作業してて思ったのが文章を、それも物語を考えるのって体力が必要だなと強く思った。展開を考えたり、場面や雰囲気に合った言い回しやセリフを考えたりするのに、かなりの集中力が必要で、一日で進められる作業量が1行だけの日もある。
正直なめてた。
ただ、岸部露伴が言ってたことを理解できて少しうれしかった。
そんな感じの年始です。
流行にのることが許されるのはティーンの間だけ
少年漫画には様々な技名が作中に登場する。
その中で使いやすい技名は日常生活においても使われることがしばしばある。
先日あるスポーツの催しものに参加した先輩から聞いたのだが、進行役が競技が始まる前にこう言ったという。
「ではみなさん、よく集中して行ってくださいね~!『全集中』ですよ~!」
これを聞いた先輩は少しばかり苛立ちを覚えたという。
僕も参加してはいないが話を聞いただけで恥ずかしさを覚えた。
こういった流行りのネタをギャグとして安直に利用したりオヤジギャグを言い放つ連中の悪いところは、聞き手に笑いを強要しているところにあると思われる。
その手のギャグはまともな人なら空気を壊さない程度に愛想笑いをしてくれる可能性が高い。
友人等の距離の近い人間であればつまらないと一蹴されるだろうが、そもそも友人の前ではそんな生ぬるいこと言わないだろう。
普通の感覚があればだが。
この手のギャグは心理的距離の遠い他人に対して使われるケースが多い。
そして、そういった人々がこの生ぬるいギャグを耳にした時、とりあえず笑って流そうといった思考に辿り着くというのは前述のとおりだ。
笑って流してしまう心理の根本には、「その場の空気を壊したくない」という気持ちと「和ませようとしてくれてるから協力しなきゃ」といったある種同情心のようなものが含まれている。
その二つは人の良心とも呼べるものだ。
捉えようによっては、件のギャグは人の良心を利用した卑怯な代物でもある。
だから、勘のいい人やプライドが高い人は敏感にその空気を察知し、イラっとしたりする。
ではなぜ、そういった発言をする人が一定数いるのだろうか。
完全な偏見だが、そういった発言をする人は根が真面目で人を笑わせるようなことを率先して行うタイプではないのではないか。
そしてそのタイプの人々のうち、空気が読めないエゴイスト気質のある人が、「これを言っておけば笑わざるを得ないだろう」と安直にして傲慢な思考から上述の糞ギャグを飛ばしてしまうのではないか。
彼らがその発言をし、すべってしまった時のことを思い出して欲しい。
「ここ、笑うとこだよ?」と言ってなかっただろうか。
エゴイストである彼らは自分を棚にあげ反省なんてかけらもせず、逆にくそつまらないギャグで笑わなかった我々を責め立てるという理不尽をやってのけるのだ。
そして、そうなると空気が壊れることに恐怖を抱く人々は笑わざるを得ず、くそったれな彼らの自尊心をむくむくと膨らませてしまい、いつまで経っても彼らはつまらないのだ。
だから、そういった発言に一度でもイラっとしたことのある人々は「つまらない」とはっきり言ってあげよう。
そうすれば彼らもいつか自分の恥ずかしさに気づき成長していけるはずだ。
それが出来ない人々は僕みたいにどっかでシコシコと吐き出そう。
メンタルヘルス大事。
穏やかな日々にあこがれて
リアルタイムに日記をつけることの有用性を示す記事を見つけた。
決まった場所にすぐに書き起こすことで行動に移すまでの労力を減らし、よし細かいことまで書き残せるようになる。それが頭の中の整理や、ブログのネタ集めの役に立つのだとか。
正に、今自分が直面している問題への最善の解決法を示されたように思えた。
明日から早速実践しよう。
願わくば、一日を平穏無事に過ごせるように。
読書の習慣もつけようと思う。
面白くない罪
面白い人というのはどういう人だろうか。経験則から言えば、身を置いている環境の中で過半数の人間から面白いと思われている人が、「あの人面白いよね」ということになるんだと思う。稀に少数派の声が大きく「こいつは面白い」と持ち上げられるパターンもあるが、基本は支持率の高さがものを言う世界だろう。
じゃあ、過半数から面白いと思われる人とはどういう人だろうか。このカテゴリは大きく二つに分かれると思う。まず「話の中身が面白い人」、そして「話し方が面白い人」だ。前者は知識や経験が豊富で人々の知的好奇心をくすぐる話題を多く引き出せたり、人とは違う観点を持っていて普通の話でも新鮮な見解をもたらしてくれる。後者は感情表現が巧く人々を話に引き込んだり、人の感情を熟知しており普通の話でも面白いと感じる話し方ができたりする。
上記は個人の見解に過ぎないため足りない部分があるかもしれないが、概ね理解してもらえるのではないだろうか。
否定意見や疑問があれば聞こう。
何?「ほらこの話面白いだろ笑えよ」みたいな雰囲気を醸し出しながら話す人は面白い人ですかって?
そいつらは総じてコミュ障&パワハラ糞野郎だ。小学生の感想文みたいなしょうもない見解をだらだらと垂れ流したり、誰も理解できない観点から意見を述べてご満悦だったり、面白くないし反応する気も起きない与太話をして誰かが納得のいく反応をするまで話を繰り返したりetc
とにかく、そんな大きなゴミが発する耳障りな音に対して一喜一憂するのは時間の無駄だ。つまらないと思ったら空気を読んでテキトーに流そう。周りの人間も同じ気持ちだから安心してね。
以上、愚痴でした。
簡単なこと
その時その時で起こった出来事に対して、いちいち勘定を揺さぶられてしまうのは非常に疲れるしうっとうしいがいつか克服できるものだと思っていた。けれど、それは気質であって今後も長い人生の中で付き合い続けていかなければならないらしい。
だとしたら、自分の身を置く環境をよく選んだり、場合によっては作らなければ、いつか爆発して突拍子もないことをしてしまうかもしれない。最悪のケースとして死ぬことを選択肢に入れても良いのであれば、我慢して納得のいかない環境で生きていくのもいいだろう。しかし、生きることを前提にして考えた時、今すぐにでも周囲の環境を変えたほうがいいと分かる。
仕事をしている最中によく頭がショートするような感覚に襲われることがある。あれは自分が至らないだけで仕事に慣れたら収まるだろうと漠然と考えていたが、未だに毎日起こっている。これはどう考えても異常だ。今の環境に順応できないのだ。
できれば、安月給でもいいから、だれにも邪魔されず自分のペースで仕事がしたい。
自分にはどんなことが出来るのかまだ分からない。だから、可能性のありそうなものに一つ一つ着手していくのが成功への近道かもしれない。
この仮説を証明するために、あとは行動あるのみ。