げんきやるきあがき

見聞きしたこと思ったことを拙い文章で書くだけ

自意識

自らの不安定さについて、今までずっと疑問に感じていたが、何が根本原因なのか最近ぼんやりとだが理解できてきた。周囲に期待したり、必要以上にタスクを抱えてしまったり、やりたいことを我慢するしかない状態であったりと、自らのキャパシティを超えた行動を取ろうとしてしまう。要は常に無理してしまうのだ。自分なんてこんなものだと諦観できず力いっぱい行動しようとしてしまう。

 

自分の限界を知らないわけではないのだ。これまで生きてきて人並以下の体力であることは理解しているし、人付き合いもやるべきことをやるのも得意ではないのだ。そんな朴念仁に期待を込める人間がいるだろうか。いないと言いたいところだが、その人本人だけが自らの能力を過信しているため、説立証ならずである。

 

苦しんでしまう理由は、現実の自分と理想の自分が乖離しすぎているためなのである。

それに気づいた僕は、脱力して生きることにした。力を抜けるところを見極めることも世の中を渡っていくうえで必要なスキルであろう。

 

僕は、この程度だと、世の中の人間たちに知らしめることができたら、とても幸せに暮らすことができるんだろうなと思う。どうしても、人は他人に対して「これくらいは自分もできるし相手もやってくれるだろう」という期待を抱きがちだから、最初からそれを打ち壊しておけば期待を裏切ることもなく平和に人生を歩んでいける気がする。

 

そう考えると芸能人って大変だ。常に人の期待に応え続けなければいけないんだから。一般人で良かったと思う今日この頃です。

猪突猛進

損得考えずに行動できる力って才能に近いのではないか。

年を重ねるにつれて何かを始める前に起こり得るリスクばかり目につくようになり、何も始めないうちからやっても無駄だと結論づけてしまう植物人間になってしまった。

 

周囲の声が気になり、続かなかった時のことを考えて時間やお金の浪費を恐れ、自分より先に始めた人々の凄みに圧倒され、なんだかんだ理由をつけて何も始めない僕は臆病で無能だ。

 

情熱を抱けるのは、養老孟子のいう「バカ」に分類される人々だけなのではないか。

他人を気にしてばかりいて楽しいか、とその人達に問われたらはっきりとノーと言えるんだけどなあ。

夢中で「僕は出来る」と信じたいものだ。出来なかった時のことなんかその時考えればいいじゃないか。割り切れるようになって出直して来い。人生案外なんとかなる。

ミサンドリー

自分の弱さをよく知っているかどうかは生き方に影響するようだ。

男性は自分の弱いところを隠すように我慢して生きている人が多いのではないか。「日本男児」なんて旧時代の負の遺産である。

 

何も気にせず、きつかったり苦しかったりしたらそれを表現していいのだ。寛容で大人しいだけでは辛いだけだ。

 

女性が社会進出をしやすくなり、男女の性差の壁が取り払われ始めている今の世の中で、必死になって男性らしさを守ろうとする姿勢は愚かで滑稽である。皆等しく人間であり尊重されるべきなのに、「空気」を読んでしまってはもったいない。

人には言葉が与えられているのに、ただ黙って目の前の出来事に打ちのめされるなんて阿呆だ。言葉は正しく使われるべきである。

 

そんな前時代的な思想に取り憑かれている輩は、好きでそうしているのだろう。頭が昭和に取り残された哀れなアンティークとして、誰にも見向きされず風化していけばいい。

 

男も女も関係なく、「自分らしさ」をくだらない外敵から守って、全力で発揮できる世の中の到来はそう遠くないだろう。

流れ流れて

反骨精神と人として成長することは両立できないのではないか。

周りにあまりに攻撃的だったり、受け入れる器が小さすぎることが弊害となり、重要な情報やスキルを得る機会を逃してしまったり、カッコつけているからこそ失敗した時の滑稽さが増すのではないか。

 

可愛く従順なふりをして、しっかりやることはやるような人間こそストレスなく世の中を渡っていけるのではないか。これはないものねだりだろうか。

でも、今更無理だ。

どうしようもなくひねくれてしまった自分が少し好きになっているんだもの。みつを

 

ただ、性格を変えることはなかなか難しいが、努力をし続けることはできるのではないか。根は真面目なのだから。

出来なくても、人にコケにされても、下を向いてしまったらそこで自分が負けだと認めることになり、二度と見返してやることが出来なくなる。だったら、自分の正しいと思ったことを貫き通して、成長の糧とするしかないのではないか。

 

真面目に生きて努力をした先には何もないかもしれない。でも何もしないでただ過ぎる日々を甘受するだけのでくの坊になりたくない。

死んだ方がましだ。

 

こんな気持ちを抱いたのは久方ぶりだ。活力が湧いてきた証だろうか。忘れずに大切にしていければいいのだが。

何が起ころうと平常心であることが成功の秘訣かもしれない。

 

なんて文章を書いていたら足元で舞ったホコリが虫に見えてびびってしまった。

こりゃ三流だわ。

へいとすぴーち

人として生まれたからには、人として使える感覚や理性を最大限に働かせて、人であるからこそ出来る営みに従事すべきではないだろうか。

 

例えば、音楽を嗜むこと。動物はただの音として感知し、自分に危険が迫っているかとか獲物がいるかとか、野生として生きるためのセンサー程度にしか扱えないが、我々人間は「ここのフレーズが好き」とか、「この曲落ち込んだ時に聞くと気分が楽になる」とか、音の並びによっていろいろな感情を喚起させることが出来る。

 

例えば、本を読むこと。そもそも文字は人類の大発明であり、社会を発展させるための重要なツールであり、人間以外に扱えるものではない。さらに、書物を読むことで先人の知恵を学び、重要な知識を得て、それを踏まえることで未来の人々は徐々に進化し続ける。歴史や思考を記録に残しておくことの大切さを知っているのは人間だけだ。

 

例えば、物を作ること。ホモ・ルーデンスなんて言葉があったように、人は多彩など道具を自らの利益のために扱うことに長けている。複雑な道具の使い方を理解出来るのは、高度な知性を持った人間のみである。

 

人にしか出来ないことは、無数にある。しかし、出来て当たり前だとする圧力や、楽しみ方が分からず批判する輩が多いせいで、純粋に人間らしい営みを享受出来ない場面が多い。これは誠に遺憾である。

 

人間は野生の暮らしを送っているわけではないのだ。生きることだけに力を注ぐのではなく、文化的な営みを送り、人生を楽しむことができる。人間とは高尚な生き物なのだ。

 

あ、お前を除いてな。

経年進化

年齢を重ねていくうちに、少女は女性へ、果てはおばさんに成り果てる。

活発な一部の子たちを除いて、少女のうちは人前では静かで大人しくしている子が多いが、年をとるにつれうちに秘めた本性を人目を憚ることなく曝け出し始める。

 

どんなに可愛くて美しい娘も、いつかはおばさんになる。

 

世の中のおばさんたちは、少女性を失った代わりに、ものすごく楽しそうに毎日を過ごしているように見受けられる。その姿はまるで、羽化した蝉のようだ。

人を貶して滑るやつらは全員倒す

年増がこら、減らねえ口を縫い合わせたろかこら。

 

社会と関わっている生きとし生けるものは遭遇したことがあるだろう。ウケ狙いで他人のことをdisるけど、つまらなくて周りが愛想笑いしかできなくなる特技をMP消費なしで連発しよる大罪人。

これ、言っている当人は面白いと本気で思ってたりするから救いがない。そんだけ年食ってんなら学べよ、空気の読めない言動が許される年齢じゃねえぞ。

 

だけど、そんな憤りを感じているのは僕だけのようで、誰も苦言を呈さないで現状維持を望んでいるみたいだ。いいんかそれで。

自分が傷つけられてもその場が丸く収まればいいなんて考えてんのかあんたらは。本人が無抵抗だと、傍から見てるだけの僕は援護も何もできなくて、もどかしいしイライラするんだが。

 

なんて出来事があって思った。優しさなんて糞食らえだ。自分の尊厳は自分でしか守れないんだから、外敵には徹底的に反抗する構えでいろ。

清く正しく生きていても、いざという時助けてくれる他人なんかいないことが大半だ。

善くあれば報われるなんて他人任せの身勝手な思想だ。

利己的であれ。

周囲の目にびびんな。